自転車でちょっと出かけた

Posted by ゆのじ on 5月 15th, 2011

相方とその妹とその知り合いと私との4人で、昭和記念公園まで自転車で出かけてきた。

自転車を買った、なんてポストをしたのが4/28だったのだが、雨やら仕事やらでろくすっぽ乗ることもできず、相方の自転車受け取りにつきあって池袋往復をしたのが最長、という状況だったところなので、待ちに待ったまともな移動となる。

ルートは家から井の頭通りに出て、ずっと吉祥寺を超えて五日市街道にあたり、そのまま五日市街道沿いに昭和記念公園の砂川口までまっすぐというきわめてシンプルなコース。これで片道およそ20km、予定では60km前後走れれば良いかと思って出た。

 

結果、行って昭和記念公園内のサイクリングロードをぐるりと一周全ルートを回って、ちょっとだけ寄り道して帰宅して、それでおよそ55km。4人中3人が車体を買って長くて数ヶ月という状況なので、そういう中ではぼちぼち走った方だろうと思う。
ただ、これで割とそこそこの疲労感があるのと、平均時速がおおよそ20km弱だったのでちょっと遅い印象。もう5kmほど平均時速をあげられて、連続で100km程度走れるようになるとちょっとした自動車並みに行動範囲が拡がるはず、まずはそこあたりを目指したい。

こまめに乗らないと慣れもしなければ筋力も付かない。これからもちょくちょく乗ってやろうと思っている。

 

そういえば、保険はGKケガの保険、という三井住友海上のものに入った。夫婦プランで2人分、年間8000円程度。万が一を考えれば激安である。とはいえ、交通弱者と喧嘩して勝てるものではない。交通強者のいる車道を主に安全に走るようにしたい。

SBM-20テスト

Posted by ゆのじ on 5月 13th, 2011
SBM-20テスト(音を出してご覧ください)

ウクライナから着荷。これも割と電子工作をやる方の間ではよく使われるSBM-20というちょっと長めの管。硬β線とγ線に感度があるとのこと。

ひとまず先日入手したランタンマントルを線源として、周辺回路は最低限、放電はAMラジオに入るノイズ(プチプチプチっという音。それ以外は関係ない電波)で検知という手抜き検証をしてみた。かけている電圧は仕様通り。

このランタンマントル、ある人の測定によれば密着させて0.6uSv/h程度の放射線がでているらしいが、聞いてもらえばわかるとおりかなりバリバリ鳴る。これの倍ほど感度がいい管も同時に入手したのだが、福島方面で使うには感が良すぎて寿命が心配になるが、ハロゲンでクエンチしている管なら10^10オーダー程度の寿命はあるらしい。
ガイガー管は一定以上の放射線で何も反応がなくなる窒息現象が起こるが、その直前でも1つパルスが入ったら一定の不感時間が発生する(参考)。ざっくり10^-4秒程度とあるのでその程度とすると、最大にカウントしている状態をキープしても10^6秒程度、11.5日くらいは連続でカウントし続けていられる。そんな状況に11日留置することもなかろうから、普通は寿命は考えずとも良かろう(*)。

(*)当然年単位で放射線の強い環境に置いたりするなら色々考えねばならないだろうが。

 

しかしまぁここまで色々試したところで言うのもなんだが、正直Svやらに直して表示してやるのは意味がないという結論に達しつつある。CPMだって気休めにすらならないんじゃなかろうか。線源からの距離やら核種やらバックグラウンドの線量やら量子力学的な確率やら、考えていけば数字はほぼ意味がない。
こういった簡易的な物で意味があるのは、センサを同じ状態に留置した上で「増えたか」「減ったか」のトレンドを知ることだけなのだろうなと思う。そこそこのお値段の個人線量計であっても、「平常時より多いのか、何倍くらいか」だけしかあてにならない。くれぐれもホウレンソウにガイガー管を当てて多い少ないで議論しないで欲しいなぁと思う。

そんなことで、作るのはおそらく家庭のどこかに留置するタイプの装置になるだろう。

 

ちょっとここのところプロダクトを作るということを真面目に考えないといかんと思っているところ、それも含めてちゃんと物にしたい。

嫌儲に清貧、出る杭打ちに感情論、即ち呪い

Posted by ゆのじ on 5月 6th, 2011

震災のおかげか、日本のダメなところがもの凄い勢いで表に出てきていてだいぶ参っている。

人が動くにはカネがかかる。誰かに動いて貰ってカネを払うという行為を自分が行うからこそ、自分も動いたときにカネを貰うことが出来る。我慢して飯を食わずにボランティアをやって、それで自己満足するのは勝手だがそれで資本経済が回ると思うのか。
かといってカネを払うとそれがごくごく小さい物であっても鬼の首を取ったかの様に文句を言い始める。相手と自分の立場が逆になったらどう思うか、ということすら想像出来ていない。ボランティアというと自己満足かもしれないが、エンドユーザからカネを取らないだけで、その活動資金は可能な限り別のスポンサーを見つけて回収すべきなのだが、それはどうも美しくないらしい。

出る杭は打たれてしまう。ちょっと周りと違うやり方をしただけでもの凄い非難の嵐、果ては裁判所ですら大いに感情論で判定を下す。そもそも叙情酌量の余地、という言葉の意図がわからない。つまり反省したふりがうまいやつほど得をする構造にしか見えないのだが、論理的に考えれば完全に頭がおかしいとしか思えない。正論を立てるとなぜかペナルティが増えるという罠。
いずれにせよ、世渡りの巧さがあまりにも大きすぎるインパクトを持ちすぎていて、質やら実体がほぼ完全に無視されている状況はだいぶ辛い。何も知らないやつが単に有名だからという理由で評論家然として偉そうなことを曰っていることに何も疑問を持たないのだろうか。

そういえばここ1週間は土下座が流行の兆し。はっきり言ってしまえば、土下座一回で何百万何千万のカネになるなら経営層は誰だっていくらだって土下座する。逆に土下座程度で幾ばくかでも許す気持ちになれるほうが驚きなのだが、そんなのでいいのか。
「最終的な収拾プランまで出させて精査してコミットメントを得ること」ではなく「土下座なりで最大級に謝罪行為を行わせること」が目的になっては手段と目的の逆転も甚だしい。尤も経営側だったらそうやって怒っている側の手段と目的をうまくすり替えて論点をずらしてコミットメントを避けつつ土下座でもして時が経つのを待ってしまえという発想もあるだろうなと思う。それを見逃してしまう以上、見逃したやつも無罪ではなかろう。

 

こういった問題はそもそもにして構造に組み込まれた何かによって人格形成されることによって起こる。ある意味、日本人が長らく自らに行ってきた呪いのようなものだと言ってもいいようなものだろう。

何百年とかけて自らを呪い続ける様な構造を維持してきた社会、自分が自分のために取れる手は諦めて構造を受け入れるか、その呪いの影響範囲から外へ出るかの何れかしかあるまい。

せめて日本人の大半が論理的な思考が出来るようになれば、ロジックツリー的な思考の組み立てが出来る様になれば、だいぶ変わると思うのだけどなぁ。