なんだか最近は、用語を定義してその定義を要求することで思考停止するパターンが多いような気がする。放送禁止用語然り、なんとか力然り、マナーだとか然り。確かに、言葉を列挙して放送禁止だ、と定義するのは簡単だ。しかしそのようなルールベースの思考はコンピュータシステムには良いかもしれないが(それでも大抵不足なのだが)、人間の生活に当てはめるのは無理なんじゃないだろうか。

 そういう定義主義者の言いたいことはこうだ。「定義がないから間違ったことをするんです。だから定義すればいい」。しかし、そういう思考停止パターンは裏返せば本来強烈な数のルール表を要求するはず。人間が生きていく上のケースを全て用意しなければいけない、ソフト屋でいえば莫大なテストケースを用意しなければならない、からだ。
 だが現実はどうだろう。ちょっと手当たり次第やってみました、程度のリストが堂々と「ルール」然とした顔で登場するではないか。こんなものルールになるわけがない。ルールを作ったことで思考停止に陥って、そこから先を考えようとしないことのほうが危険なのに、何故だれもそれに気がつかないのか。

 思考停止といえば、最近のインターネット業界に対する法規制の整備やフィルタリングもひどいものがある。本来、法律というのは結構な時間をかけて整備されてきたもの。それをインターネット業界の進歩が早いからと十二分なエージングを経ずして適用しようとしたってうまくいくかといえば激しく疑問だ。フィルタリングもフィルタリングすることによって安心しきってしまう、その思考停止が危ない。何かあったらフィルタリング会社を訴えるつもりだろうか。

 思考を重ねることは確かに大きな労力を取られてしまうが、それに見合った結果は必ずあるはずだ。形式的なルール付け、レッテル貼り、そんな思考停止はもうやめたらどうだろう。人間は考える葦、なのだから。

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