Archive for the '思想' Category

嫌儲に清貧、出る杭打ちに感情論、即ち呪い

Posted by ゆのじ on 5月 6th, 2011

震災のおかげか、日本のダメなところがもの凄い勢いで表に出てきていてだいぶ参っている。

人が動くにはカネがかかる。誰かに動いて貰ってカネを払うという行為を自分が行うからこそ、自分も動いたときにカネを貰うことが出来る。我慢して飯を食わずにボランティアをやって、それで自己満足するのは勝手だがそれで資本経済が回ると思うのか。
かといってカネを払うとそれがごくごく小さい物であっても鬼の首を取ったかの様に文句を言い始める。相手と自分の立場が逆になったらどう思うか、ということすら想像出来ていない。ボランティアというと自己満足かもしれないが、エンドユーザからカネを取らないだけで、その活動資金は可能な限り別のスポンサーを見つけて回収すべきなのだが、それはどうも美しくないらしい。

出る杭は打たれてしまう。ちょっと周りと違うやり方をしただけでもの凄い非難の嵐、果ては裁判所ですら大いに感情論で判定を下す。そもそも叙情酌量の余地、という言葉の意図がわからない。つまり反省したふりがうまいやつほど得をする構造にしか見えないのだが、論理的に考えれば完全に頭がおかしいとしか思えない。正論を立てるとなぜかペナルティが増えるという罠。
いずれにせよ、世渡りの巧さがあまりにも大きすぎるインパクトを持ちすぎていて、質やら実体がほぼ完全に無視されている状況はだいぶ辛い。何も知らないやつが単に有名だからという理由で評論家然として偉そうなことを曰っていることに何も疑問を持たないのだろうか。

そういえばここ1週間は土下座が流行の兆し。はっきり言ってしまえば、土下座一回で何百万何千万のカネになるなら経営層は誰だっていくらだって土下座する。逆に土下座程度で幾ばくかでも許す気持ちになれるほうが驚きなのだが、そんなのでいいのか。
「最終的な収拾プランまで出させて精査してコミットメントを得ること」ではなく「土下座なりで最大級に謝罪行為を行わせること」が目的になっては手段と目的の逆転も甚だしい。尤も経営側だったらそうやって怒っている側の手段と目的をうまくすり替えて論点をずらしてコミットメントを避けつつ土下座でもして時が経つのを待ってしまえという発想もあるだろうなと思う。それを見逃してしまう以上、見逃したやつも無罪ではなかろう。

 

こういった問題はそもそもにして構造に組み込まれた何かによって人格形成されることによって起こる。ある意味、日本人が長らく自らに行ってきた呪いのようなものだと言ってもいいようなものだろう。

何百年とかけて自らを呪い続ける様な構造を維持してきた社会、自分が自分のために取れる手は諦めて構造を受け入れるか、その呪いの影響範囲から外へ出るかの何れかしかあるまい。

せめて日本人の大半が論理的な思考が出来るようになれば、ロジックツリー的な思考の組み立てが出来る様になれば、だいぶ変わると思うのだけどなぁ。

9月

Posted by ゆのじ on 9月 6th, 2010

某カフェをHDR撮影してAutoStitchで合成してみた

あっという間に8月は過ぎて9月になった。結局8月は1ポストしか出来ないという体たらく。忙しいを言い訳にしないで過ごしたい。

なんというか、ここのところ「この先30年」を考えるようになってきた。やっとかよ、という話ではあるが、人のことを馬鹿に出来ないほど足下しか見ていなかったので、この脳内モードの転換は歓迎すべきことだと言えよう。

とはいえ、同一の事業として30年続けられるような事業はおそらく自分には向いていない。いろいろな事業をやることになるだろうが、その軸になるようなこと、はぶれてはいけないと思う。

なるようになるし、なるようにしかならない、の中で何が出来るか。これを縛るのはきっと想像力だろうなと考えている。本人がリアルに想像出来ない物はどうがんばっても実現出来ないのだ。

ゆとり教育を受けてゆとりのない心に

Posted by ゆのじ on 7月 7th, 2010

cat

ゆとり教育を受けていた人がだんだんと社会に出てきているという。

ゆとり教育そのものやその結果もさておき、そういう人を馬鹿にする人も含め、日本の多くの人から「ゆとり」が失われすぎてはいないだろうかと思う。
ゆとりがないから目の前のことばかり気になってしまって先をみる余裕がない。先を見ないから先に投資もできない。先に投資しないからフラフラしてまっすぐ進めないし結果もでない、迷走してしまう。

かっこよく生きないと、というわけではないけれど、武士は食わねど高楊枝的な矜持をもって生きるのも大事ではないかと思う。勉強ができたって、「人間かくあるべし」というような考えが持てないようでは程度が知れる。親が子に教えなきゃならないことなんてそういうことなんではないかね。人生を、世の中を俯瞰するような鳥の目を持てる根本的な思想。

ぼろぼろの今、それを取り戻せるのだろうか。誰もが気づいたときにはもう手遅れなのだが。