Archive for the '思想' Category

時代の移り変わり

Posted by ゆのじ on 10月 27th, 2011

時間は常に進み続けるものではあるけれど、その動きが感覚としてわかるときがあるのではないかと思う。

その実感を強めざるを得なくなったのが今年。時代を変えるような人間が何人も死んでいき、災害は世界中で何百年に一度何千年に一度規模のものが起きている。所詮人間の所業など戯れに等しいと言うことかもしれない。100年先を見据えた政治が出来る人物が出てくればと思っているものの、それは実は自然現象、ひいては物理学に刃向かうということなのかも知れない。だからといってそれを諦めては人間が人間たる部分を失いかねない。面倒な話だ。

そんな中でも自分はそれなりに食わねばならないのは事実。どこかの成り上がり企業のように貧者を騙して金を吸い上げるようなビジネスはしたくないし、身の丈を超えた贅沢をしようとも思わない。ただある程度ちゃんと飯が食えて、ストレスの少ない生活が出来て、自分の作り出したものによって他の人がそういう生活を得られれば、だいぶ幸せなんだろうなと思う。

忙しすぎて仕事以外には息抜きにこういうことを考える程度の余裕しかないのだが、あと半月もすればこの忙しさは抜けるはず。そうしたら半月ばかし考えにふけるのも悪くなかろうと思う。

さて、今年はこの程度で済むのだろうか。

仕事考

Posted by ゆのじ on 9月 6th, 2011

92式地雷原処理用ロケット弾

思いつきをつらつらと。

ITというか、システム化というものは手間を減らして間違いも減らして、総じて無駄をなくすための投資だと考えてきた。この考えは原則的には今も変わっていないし自分の会社の根幹をなす考えでもある。

だが、最近そこに違和感がある。日本だけでも数千万人の仕事をしたい人がいる。そのうちいくらかは仕事に就けていない。それはその人の能力が足りないことも原因ではあるだろうし、人として問題がある人もいるだろうが、自動化されてしまうことでその人の能力でつける仕事がなくなってしまったことも少なくないのではないだろうか。きわめて単純な、機械にもできるような仕事が昔は人の仕事だったのだ。

むろん、システム化に反対だと言うわけではない。システム化することによって仕事をなくした人は今度は何をやれば良いのだろうということが気になるのだ。コンビニやスーパーのレジうちはいずれ機械化されるだろうし(すでにある程度されている例はある)、交通整理の人参振りだってどんどん機械化されている。昔は重労働だった経理の計算だってとうの昔にソフト化されたし、そう考えれば自分の仕事は人に仕事を失わせることなんだろうなとも考えてしまうわけだ。

これまでは良かった、のかもしれない。グーテンベルクが活版印刷機を発明したおかげで、それまで手で本を書き写していた人は大量に失職しただろうが、それを超えて経済がふくらんでいた時期、もしかしたら別の仕事があったかもしれない(なかったかもしれないが)。だが、今はもう経済を虚構レベルでふくらませすぎた時代、もうこれ以上経済活動を広げる余地があるのだろうか。正直そこには期待できる気がしない。

そんな中、最近羽振りがいいソーシャルなんちゃらの類は、そんななかで仕事を失うか失わないかギリギリの人の不安感、共通の話題を持ちたい希望、人と同じなら何とかなるだろうという思い、そんなのをエサに金を回してるんじゃないかなんて思ってしまうのは言い過ぎか。

自分と自分ちのケツを十二分に拭けていない状態で偉そうに大上段から構えるのもよろしくないが、そんな虚業で稼いだアブク銭で飯を食ってもウマくない、どうしたらウマい飯が食えるかなぁと考えている。

いや、苦労すりゃエライなんていうつもりは全くないんだけどね。

揺れる時代

Posted by ゆのじ on 6月 3rd, 2011

たまの青空

最近毎日の様に電子回路の試作をしては設計にフィードバック、都合が宜しくなければもっと目的にあった特性の部品がないか探すという日々を続けていた。
プログラムは言語への知識よりも限られた語彙でいかに目的を達するかというほうが効いてくるものだが、電子回路は部品の種類が厖大で、それを実装した回路の種類はじつはさして多くない。さらに基板のパターンに起こすところでまたノウハウはいるのだが、まず出したい特性の部品がないと始まらない。そんな意味で普段と違う脳味噌を使っている気がする。
忙しいのはありがたいことなので、もう少しこの程度の忙しさが続いてくれることを期待したいところ。

そんな状況であたふたしている所、本当に今年は世の中が揺れている。地震もそうだが気象的にも落ち着かない。経済だって世界的に相当揺らいでいる。日本で政治が揺らいだが海外だって相当な揺らぎようで、まだ鉄砲玉が飛び回らないだけマシだと思いたい。

こういう非常事態にはだいたいメディアはわかりやすい構図を作るようで、安全/危険だの、原子炉賛成派/反対派だの、とかく明確な線を引きたがる。だが世の大抵のことには閾値なんてない。閾値は人が決めること、そこには相当な意図が入ると思って間違いない。それをさも科学的論拠がある様に語るやつこそ騙りだと思わないといけない。

これからの時代、これまでの比でなく自分で考えて自分で判断して自分でリスクを取って選択することが必要になってくる。

その構えはあるだろうか。