鍼治療を受けてきた

Posted by ゆのじ on 10月 31st, 2008

 最近ずっと調子が悪いところに、指の手のひら側の筋が痛くなりだしたので、鍼治療を受けてきた。医者に行け医者、という説もあるが、昔知人の鍼師に見てもらっていたときにかなり効いていたのと、東洋医学のくせに即効性があることがわかっていたので鍼を選択。

 そのときの知人が亡くなってしまっているので、じゃぁどうするかと調べていたのだが、普段からRSSフィードで読んでいるとあるblogによく出てくる「貴子鍼灸治療室」へ行ってみることに。実は自宅から駅に行くのとほとんど変わらない距離にあるのも選択理由。

 行ってみると、開口一番心臓以外にいいところがなくて全部の内臓が弱ってると指摘され、そりゃ辛いわけだと言われてしまう。指の内側の筋が痛いのは首がおかしいからなんだそう。ここ数日手先が冷える(私は元々は真冬でも手のひらからがんがん発熱するタイプなのにもかかわらず)のも、体中が弱っているからなんだとか。

 そして早速びしばし鍼+立体動態波治療なるものを受ける。この立体動態波自体どうなのかは正直よくわからないが、要するにちょっと機能の多い低周波治療器のようなもの、のようだ。受けている感じはそんな雰囲気。導子、という低周波治療のパッドの親戚のようなものを買って使うとより効果的とのことで、それもお願いしてしまう。12回くらい使える物で、\5,250。
 鍼は首周りを中心に、都合50カ所くらい(もっとかもしれないがまじめに数えていなかったので正確には不明)打ってもらった。昔何度も打ってもらったことがあるが、体の芯だけ押しているような独特な感じはやはり良い。

 そして施術からおよそ4時間ほどたつ今、指の痛みはほぼ完全に消えて、体中がかなり楽になった。1週間後、もう一度見てもらうことになっているが、これだけ効いたら安いものだと思う。しかも、保険適用外ではあるものの、医療費控除の対象になるとのこと。知らなかった。

 鍼、おすすめである。

 ちなみに、その後理学療法士の友人にこの顛末を話してみたところ、理学療法士としてはいきなり首を治療することはないなぁ、との言葉。なるほど東洋医学は奥深い。

Helvetica展

Posted by ゆのじ on 10月 27th, 2008

週末、Helvetica展に出かけてきた。

Helveticaについての詳細はwikipediaを参照してもらうとして、何しろ古くからある魅力的な書体で、あちこちに使われている。あまりにも多くの場所で使われすぎていて、意識することすら普通の人はないだろうと思う。

展示物もおもしろかったが、何よりPAPIER LABOという会社が持ち込んだ活版印刷機の体験コーナーで、活版印刷機(手キン、とか手フート、というらしい。語源はなんだろう?)にふれることが出来たことが貴重な経験だった。文字からかすかにインクが押し出されて輪郭を揺らがせる様など、大変心地よい印刷結果。ついにやりとしてしまう。

知人の名刺は銅版印刷だった。うちの名刺は活版印刷にトライしてみようか、そんなことも考える。印刷機自体は1台20万円弱程度で時折流通しているようだし、MODELAあたりと組み合わせれば・・。夢は広がる。

ただ消費者になるなかれ

Posted by ゆのじ on 10月 15th, 2008

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とあるblogを読んでいて思った。現代人はあまりにも甘やかされすぎ、只の消費者になってしまっているのだということに。

昔は何でもお金で買える時代ではなかった。たとえお金があったとしても、自分の要望に応えるだけの商品は無いことが多かった。だから、どうしても要望を満たしたいと思ったら自分で作るしかなかった。もちろん実作業は他の腕利きの職人にお願いするとしても、その基本構想は自分が考えなければならないものだった。つまり、世の中が人をクリエイターたらしめていたわけだ。

時は流れ、大抵の日本人は強烈に豊かになった(ただし金銭面だけ)。そして、世界中の人が新しい物を作り続けた結果、ちょっと思いついた程度の要望をおおよそ満たすような商品は探せばすぐに見つかるようになった。後はお金を使えば要望は満たされる。自分で何かを考える必要なんて、無くなったわけだ。

自分で何かを考える必要が無くなって、売っている物を買えば良くなってくると、今度は売っている物と自分の要望との微妙な差異を埋めたくなってくるのは人情だろう。勤勉な日本人はそういう差異を勤勉に埋め続けた。そして良い商品が色々生まれてきた。

だが、それにも飽きたらず、今度は「機能」ではなく「安心」に対しての差も埋めたくなってきたらしい。自分でどうすれば安心に使えるかなどとは考えない、あくまでも製造者に要求し、もしくは製造者を取り締まる者に規制を求めるのみになった。ここまでくると、昔クリエイターだった面影はどこにもなく、只々ひたすらに周囲に文句を言い続けるだけの木偶と成り下がってしまったわけだ。理想を追い求めた末の末路がこれとは、勤勉だった時代には全く予想だにしなかったことだろう。

安全を極めようとすればするほど人間の本能が鈍っていざというときに危険だということを、理解できるうちに挽回していかないといけない。そうは思わない?