Archive for the '思想' Category

コトは重なったりするもの

Posted by ゆのじ on 4月 27th, 2009

R0012167

昨日の友人との会話。悪いことは重なるもんだね、という話をした。金融市場が崩壊して世界中の経済がガタガタ、そんな中に今度の豚インフルエンザ。これがある程度広がってパンデミックの様相を呈してきたタイミングで地震でも起きればロイヤルストレートフラッシュだ。相当なダメージがあることは間違いなかろう。

すでに現在の時点でいろいろな伏線はすでに張られているように思うし、そんなことになったら本当の意味で「自力で」飯を食わざるを得ない。そういう危惧に対応するため(という言い訳で財布への食費負荷を低減するためであったりもするが)、今年は随分色々な野菜を植えているし、保存の効く食材(豆の類や乾物類、缶詰類)もある程度備蓄しようと考えている。そうこうするうちに、随分出費を押さえられるようになってきた。

そんな試行錯誤を重ねつつ考えてみると、結局のところ、先進国的な文明的生活を送ろうとすることが、ちょっとした外的要因ですぐ揺さぶられるし、職が安定しなければ飯が食えないという状況を作るのかもしれないと気がついた。野菜なんて日の当たるベランダすらないというケースを除けば1日10分程度の時間を割ければ十分育つし、ポイントさえ押さえれば(株ごと収穫する手合いは育てないとか、実生から育てる方がいいのか苗から育てる方がいいのか、接ぎ木苗にすべきか、土が疲労しづらい育て方かどうか等々)元はきちんと取れる。そうやって食い物に困らない状況を作っておけば、後はわりとどーにでもなる、のではないだろうか。

そんなことを考えつつ、今日は野菜の苗を買いつつ、\380で売っていたベタに一目惚れして買ってきた。人間万事塞翁が馬と言うが、まぁ深く考えすぎても人間1人の出来ることなどたかがしれている。問題は、コトが起きたときにどうにでもできるだけの地盤を作っておくことなんじゃなかろうか。

余談。コト=悪いことのように書いたが、経験上良いことも重なることが多い物。悪いことばかり重なるように思っているのであればそれは考え方がと悲観的に過ぎるだけのことだろう。良いことも悪いこともあっての世の中、楽しく生きるなら、せめて楽観的に。

余談の余談。そんなことを言いながら、うちの分だけはF95マスクだとか二酸化塩素系殺菌剤だとかをamazonに発注した。備えあればうれしいな、というやつだ。楽観視するための地盤への投資は忘れずに。

PAC3@市ヶ谷

Posted by ゆのじ on 4月 4th, 2009

pac3
SIGMA MIRROR600mmF8, 2枚合成

市ヶ谷に生きたPAC3が配備されたという。配置場所を調べると見ることが出来そうなので行ってみると、確かにそこにPAC3は居た。

こいつが火を噴くようなことになれば、これまでの平和は過去の話になるだろう。近代、人類は閉塞感を戦争で解決してきた。だがそれが本当に最善の策なのか、そろそろ過去に学ぶべき時ではあるまいか。

道具考

Posted by ゆのじ on 3月 26th, 2009

かしめ工具

先日知人と「道具」について語ったことがあった。いろいろ便利なモノは世にあれど、「道具」になってるものは少ないよね、と。もちろんここでいう「道具」はその会話の上での狭義の「道具」であり、使用者の頭と腕次第で幅広く使えるモノ、といったニュアンスで会話をしていたのだが、つまり作成者が想定した目的にしか使えないモノだらけでしょーがないこった、という会話をしていたわけだ。逆に言えば使用者の教育レベルが上がらないと使えないモノが減ってるなぁという話。

もちろん、ほとんどの高度なモノは目的を達成するためにあるのであって、目的を達成するために道具について熟練しないといけないとなると主従逆転本末転倒、それこそどーしようもない。だから大抵の場合それでいい。だが、すべてそうなってしまうと、手になじんだ「道具」が全然なくて、それはなんだか刹那的で厭だなと思う。

なんでそんな話を今更というと、昨日なんとなくテレビを見ていて、時計師という職業の一片に触れたことでトリガーが引かれた感じ。テレビなので脚色はあろうが、時計師という仕事はまず仕事道具を作るところから始まるのだそう。ピンセットやドライバーから始まり、大きい工作道具も作ってしまうように見えた(これは特に番組中では語っていない。本筋じゃないし)。道具を作るというのは大事だな、と思うと同時にシナプス発火的に思い出したのは下のムービー。ハンドメイドの真空管を作っている人だそうな。この人もムービーを見る限り、相当数の自作ツールを使っている。

物作り屋、を名乗りたい身としては、こういった道具も本当に使いやすいものを使うべきなのだろうと思う。特にここのところ、ほしい道具のイメージがあってもモノがない、ということが多い。そこで「ないなら作れ」という発想が出てきていなかったのは怠惰でしかない。反省とともにやる気がわいた。

誤解を恐れず言うと、テレビ番組はほとんどはただ隙間を埋めるためだけに作られた、新聞を丸めた緩衝材のようなものだと思っている。そもそも毎日朝から深夜までの枠を新しい番組で埋めて、しかもクオリティの高い番組で埋めることなんてできやしないし意味もない。それでも隙間を埋めているのだからクオリティなんて高いわけがない、というのが持論だ。
だが、中にはこういった脳へのトリガになってくれる番組もある。特に今回のような話は自分から情報を取りに行ったのではなかなか得られないタイプのトリガだったわけで、そういう部分ではテレビ侮りがたしと言える。ペイパービューになって、どの番組も品質が高い内容、になってくれるとよりありがたいのだけれど。

追記:ちょっと表現改めました。