Archive for the '思想' Category

マニュアルから奴隷へ

Posted by ゆのじ on 4月 21st, 2008

 ちょっと時間が出来たので、ヨドバシカメラの書店コーナーをぶらついて本を見ていたのだが、あまりにもマニュアル的な本だらけになっていることに衝撃をうけた。いや、今更言うまでもないのだけれども、改めて。

 マニュアル本は、その本を読むと○○が出来るようになります、ということをうたっている。全くそこの業界を知らないところから、ある程度のレベルに至るまではそのような本に頼って「試してみる」ということは必要だと思うし、そういう本に助けられてきたことも事実、こういう本が全く駄目というつもりはない。

 だが、最近のマニュアル本の傾向として、○○で勝てる、だとか、そのノウハウが銀の弾丸であるような書き方をしている本が多く見られることが気になる。

 銀の弾丸なんてない、というのはよく言われる話ではあるが、それでもなんだか不況になるとそういう本が多くなってくるように思っている。ルールベースの挙動になると、ルールが策定されてなければおkという風潮が出る。モラルが消える。自らモラルをもって考えて行動する自由が制限される。それは最後には奴隷への道だ。わかってやってるのだろうか。

 取引先の社長が言うには、今の世の中は明治~大正~昭和初期くらいの戦前日本にそっくりなんだそうだ。ただし今のエライ人間は思想がない、と。そうかもしれない。思想をもって我が身ではなくて世の中を見て、というのは今のエライ人には難しいのかもしれないなぁ。

白熱電球が消える?

Posted by ゆのじ on 4月 20th, 2008

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 京都議定書絡みか、経済産業省が電球メーカ各社に白熱電球の製造終了の要請をしたというのは記憶に新しい。早速東芝はそれをうけて白熱電球の製造を終了予定を宣言した[日経BPの記事]。対象となる白熱電球は「ホワイトランプ(100V/110V)、長寿命ホワイトランプ、セミホワイトランプ、ウスシリカランプ、一部のホワイトボール」とのこと。「ミニクリプトンランプ、ハロゲンランプ、反射形ランプについては今回は対象外とのことだ。

 これは先日の思考停止パターンに近いものだが、それよりはエライ人が対策をしているポーズを見せたいがための流れと見た方が良さそうだ。白熱電球に強い思い入れがある日本人は今やマイノリティだろうと思えるし、そこからの反対を考えればアピールによって得られる利益のほうが大きい、そんな考えが見て取れる。

 そもそも、CO2だけにフォーカスしてエコロジーだと考えるあたりがすでに可笑しい話なのだが、それをさておいてもCO2を発生させない発電方法を検討するなり他の方法論はいくらでもある。それこそ、原子力発電にもっとシフトすればいい。原子力は危険、という発想はその要因を考えれば理解できなくはないが、それならきちんと十二分な費用をもって研究をしたり、教育をしたりすればすむ話。それをせずに怖いという根拠のない考えを持ち続けることがそもそもの問題だ。原子力が嫌なら太陽からのエネルギーをもっと活用する研究だっていい。太陽からのエネルギーは地球全体へ180PWも照射されているのだから、風力なんかよりよほどエネルギー源としては有用そうだ。そういうことを考えず、CO2がCO2が、という話を聞くたび、いつまで石油を燃やしつづけるつもりなのかと問いたくなってしまう。

 話がそれた。そんな思考停止パターンのせいで消えようとしている白熱電球、エライ人は電球型蛍光灯に変えればいいという。最近の電球型蛍光灯は若干高価なものであれば調光器にも対応しているから確かにリプレイスは可能だろう。だが、スペクトルの問題は完全に視野にないらしい。例えば、Nationalのバルックボールプレミアのスペクトルと同社のシリカ電球とのスペクトルを並べてみるとこんな感じになる。

spec2 spec1 (c)National

 この違いが私の場合は大きくて、電球型蛍光灯(特に電球色をうたっているもの)を使っているところに長くいると気分が悪くなる。蛍光灯も普通の蛍光灯ではものすごい勢いで疲労が蓄積されるので、色評価用蛍光ランプという下のようなスペクトルをもつ蛍光管を使うようにしていた。過去形なのは、先日引っ越したせいでまだ入れ替えが済んでいないのだが、やはり通常の蛍光管では疲れがひどい。

509562 (c)東芝ライテック

 疲れがひどい環境で仕事をするというのは、私にとって苦痛でしかないし、馬鹿みたいに耐えることに耐えられないから自分で会社をやっていたりと茨の道を歩んでいるわけで。

 まぁなんというか、そういう人の選択肢をなくすな、と言いたいわけだ。全体的に話がぶれぶれ。あんまりネタを寝かせておくと腐ってしまうので取りあえずpost.

用語定義と思考停止

Posted by ゆのじ on 4月 18th, 2008

 なんだか最近は、用語を定義してその定義を要求することで思考停止するパターンが多いような気がする。放送禁止用語然り、なんとか力然り、マナーだとか然り。確かに、言葉を列挙して放送禁止だ、と定義するのは簡単だ。しかしそのようなルールベースの思考はコンピュータシステムには良いかもしれないが(それでも大抵不足なのだが)、人間の生活に当てはめるのは無理なんじゃないだろうか。

 そういう定義主義者の言いたいことはこうだ。「定義がないから間違ったことをするんです。だから定義すればいい」。しかし、そういう思考停止パターンは裏返せば本来強烈な数のルール表を要求するはず。人間が生きていく上のケースを全て用意しなければいけない、ソフト屋でいえば莫大なテストケースを用意しなければならない、からだ。
 だが現実はどうだろう。ちょっと手当たり次第やってみました、程度のリストが堂々と「ルール」然とした顔で登場するではないか。こんなものルールになるわけがない。ルールを作ったことで思考停止に陥って、そこから先を考えようとしないことのほうが危険なのに、何故だれもそれに気がつかないのか。

 思考停止といえば、最近のインターネット業界に対する法規制の整備やフィルタリングもひどいものがある。本来、法律というのは結構な時間をかけて整備されてきたもの。それをインターネット業界の進歩が早いからと十二分なエージングを経ずして適用しようとしたってうまくいくかといえば激しく疑問だ。フィルタリングもフィルタリングすることによって安心しきってしまう、その思考停止が危ない。何かあったらフィルタリング会社を訴えるつもりだろうか。

 思考を重ねることは確かに大きな労力を取られてしまうが、それに見合った結果は必ずあるはずだ。形式的なルール付け、レッテル貼り、そんな思考停止はもうやめたらどうだろう。人間は考える葦、なのだから。